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| 蒲生の由来! |
| 南蒲生の蒲沼(七北田川河口付近)に古くから蒲のヨシが生い茂った湿地帯が有ったそうです。 その蒲草が良質の為に地名を蒲生にしたそうです。 |
| 蒲生の沿革概要 |
| 蒲生村は高砂東部の湿地帯で、高砂のうちで遅れて人々が永住した所と思われる。 現在の蒲生は七北田川によって和田新田・町蒲生・南蒲生の3行政区に分かれ、 仙台新港建設に至って追分より集団移住した中野新町、その西に白鳥団地と発展している。 南蒲生の中心地は鍋沼である。 |
| 蒲生の歴史! |
| 寛文10年、御舟入堀工事の為に人が集まり、完成後は蒲生に沢山の蔵が建並び、 年貢米、塩、その他の物資の中継地点となっていました。 「蒲生御蔵」と言われ当時の蒲生は大変なにぎわいがあり、 お蔵、御舟堀の舟たまりは昭和50年まで存在してた。 |
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| 明治15年2月〜明治20年、蒲生から仙台駅東口までの12.3kmを 木道貨物(木レ-ルの上に鉄板を張り四輪車を馬に引かせるもの)によって 米、塩等を運搬していたと言われている。 |
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| 蒲生御蔵 |
| 1670年、仙台藩は城下町仙台を作る為に研究が重ねられた結果、御舟入堀を利用し 蒲生から鶴巻経由苦竹までの物資輸送計画が立てられた。 これにより、御舟入堀の大代(多賀城)までの延長と、七北田川の付替工事が行われ、 さらに、鶴巻から苦竹までの御船曵堀が完成させた。 それに必要な御蔵(倉庫)を蒲生・鶴巻・苦竹の三ヶ所に設けた。 その、中心となったのが、「蒲生の御蔵」であった。 米が10万表、塩が10万表納められたあった。 |
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| 仙台市立中野小学校 |
| 明治20年頃、柄越(からこし)の本校と蒲生の分校に分かれていた。 戦後に今の名称に変更され、昭和46年4月7日に現在地に移された。 |
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| 我が母校です。やはり木造校舎は暖か味が有りますね。 |
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| 最近、建替えられ、立派なコンクリ−ト造の校舎になってました。 |

| 貞山堀(貞山運河) | |
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| 塩釜市から岩沼市にかけて、塩釜、多賀城、仙台、名取、岩沼の5市にまたがる33kmの運河。 伊達正宗の贈名貞山公に因んで名づけられたそうです。 北部、中部、南部の3区間に分けられる。 阿武隈川河口から閖上(ゆりあげ)までの南部水路(15km)は1668年に完成。 塩釜から蒲生までの北部水路(8km)は1673年に完成 蒲生から閖上(ゆりあげ)の中間水路(10km)は1887年に完成 (上部写真は中間水路) |
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| 七北田川 |
| 七北田川は泉ヶ岳のふもとを源とし、仙台湾に注ぐ全長40km程の二級河川である。 その、河口北側には30ha余りの干潟が広がっている。それが「蒲生干潟」である。 |
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| 高砂橋が出来る前には、渡り船が有ったそうです。 |
| 蒲生海岸付近 |
| 1660年代には、七北田川は七ヶ浜の湊浜に流れていました。 貞山運河の掘削工事とともに河口を現在の蒲生に付替工事を行い その残りが「蒲生干潟」になったと言われています。 |
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| ↑現在の蒲生干潟! |
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| 海岸は遠浅で、海水浴に適していて、夏には海の家も建ち、多くの海水浴の人々でにぎわった。 昭和34年、南蒲生に汚水処理場が建設され、水質汚染げ懸念されて遊泳禁止区域となった。 |

| 高砂神社 |
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| 1670年、伊達氏の命によって多賀城の大代から蒲生までの御舟入掘削工事(貞山堀) が始まった。この地区は海砂の為、工事は困難を極めた。 工事の完成を祈って作ったと言われてる。 |
| 日和山 |
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| その昔、仙台藩は蒲生海岸守備の為に航行する船の監視にあたり、大砲が備えられていた。 その跡地が日和山になる。 その後、地元漁師達が沖を眺めながら日和見した事から、日和山と名付けられた。 平成3年、標高6メ−トルの日本一低い山として建設省国土地理院によって認められる。 |
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| 左から大正10年・昭和10年・昭和27年の蒲生周辺の地図です。 見にくいですが。七北田川が曲がっています。 |
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